前の対談    次の対談    戻る  No1 よみうり情報・住吉1989年1月号より

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ゲスト 大屋 政子さん

★ホスト 氏田 耕吉 (ウジタオートサロン代表取締役)

「生まれ変わった帝塚山病院」


テレビタレント、ゴルフ場経営、病院経営、またバレエスクール主宰者として、国際的スケールで活濯する大屋政子さん。この政子さんの経営する「帝塚山病院」が昨年九月、一般病院として生まれ変った。新しい病院の考え方、内容を中心にお話をうかがった。

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お母ちゃん、おとうちゃんを看取った経験から生まれた老人中心の病院

担当医も「ようこんな看病できますな」

氏田 大屋さんは私の父のことを御存知なのですね。

大屋 戦後すぐにロンドンでイギリスの車を買ってきたのだけれど故障してね。あなたのお父さんにお願いして部品を取り寄せてもらったの。あの頃は三十日以上かかったのを覚えているわ。

氏田 何年項のことですか。

大屋 昭和二十三年頃だったわ。

氏田 私がまだ生まれていない項ですね。ところで今日は大屋さんに病院のことを中心にバレエのことなどいろいろお聞きしたいと思っているのですが、まず最近、帝塚山につくられた人間ドックを大きく発展させて、

一般病院としての「帝塚山病院」をつくられましたね。その動機と主な内容などについておうかがいしたいのですが…。

大屋 人間ドックは昭和三十八年におとうちゃんの健康維持のためにつくったのよ。また今の自宅には歯医者の椅子もレントゲンも置いて、月二回、三十年以上先生に来てもらって診てもらったの。当時一般の病院ではあまり力を入れていなかった予防医学を徹底してやっていたの。その人間ドックを病院にと考えたのは、まず私が自分の母と主人を看取った時の話からするわね。母が倒れてから一九七五年八月に亡くなる最後まで自宅で看病したのだけれど、

昼間は付き添いさんも機嫌よくしてくれるのやけど、徹夜なんかの時にはふくれて物も言わへんの。仕方ないから私がずっと徹夜してね。腎宇炎になりはった時にはお医者さんに習って膀胱洗浄したり、流動食をつくって鼻から管で入れたりもしたわ。母を看取ってから五年後1980年に私の主人で「帝人」社長で大臣を三回つとめた大屋晋三を看取ったの。おとうちゃんの病状がうんと悪くなってからは夜中に膀胱に入れたカテーテルを入れ直してお小水をとってあげたり大きな体を担いでお風呂に入れてマッサージしてあげたり、担当の先生が「ようこんな看病できますな」というくらい必死で看病したの。

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最新の設備、心のこもった看護、訪問看護、入浴だけの来院も…

氏田 徹底してやられたのですね。すごいパワーがいりますね。

大屋 ところがそういう私の姿を娘たちが見ていて「お母ちゃんもの凄い体力やね、私らとてもそんな体力ないし、もしお母ちゃんが寝込んだらどないして看病したらええのやろ。せえへんと言うてるのと違う、できるかどうか心配やわ。私の方が先に死んでしまうかもしれないわ」と言うのよ。「アホなこと言いな」と言うたのだけど、自分の老後、私が病気になってからの娘たちのことを考えるとそうばっかりも言っておれないの。それで私が倒れても娘たちに迷惑かけなくてすむような私の部屋をつくったわけね。先に話したけれどお父ちゃんの時にはあの大きな体を担いで一緒に入るものだから、私どれだけ湯あたりしたかわからへん。そんな苦労を娘にかけたくないと思ったものだから、

手すりがあってスロープのあるお風呂をつくったの。それで考えてみたら私のような境遇で体が不由由になった時に、家族に迷惑をかけたくない人はいっぱいいる筈、そういう人のために病院をつくってあげようと思って、人間ドック中心やった「帝塚山病院」を老人を主な対象にした一般病院につくり変えたわけなの。

氏田 なるほど。大屋さんが、お母さんと御主人の看病の中で苦労されたことを生かして生まれたのが、新しい帝塚山病院なのですね。

大屋 そうなんよ。一般病院やから、CTスキャンといって頭の中を輪切りにして撮影できる装置や、老人の重症患者用にICUをはじめ、最新の医療機器や設備、それに基準看護、基準給食、基準寝具の体型を整えている病院なのよ。

それにお風呂の浴槽が上下して寝たきり老人がそのまま入浴できるお風呂なんかはお母ちやんやおとうちゃんを看病した時の経験から生まれたものやわね。

氏田 お風呂だけ入りに来ることもできるとお聞きしていますが…

大屋 そう。これからの時代はお年寄りが病気になっても、ある程度良くなれば自宅で介護する時代やわね。そういうお年寄りの方に、うちの病院では、入院してもらわなくてもこちらから出向いて介護したり、お風呂だけ入りに来てもらったりするようにしているわけなんよ。

氏田 おとしよりにとっては嬉しいことですね。至れり尽せりで。病人を抱えた家族も安心ですね。

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帝塚山にホールの一つもないなんて

氏田 バレエ団、ゴルフ場のことについても詳しくお聞きしたいのですが、時間がありませんので最近感じておられることなどを…

大屋 そうやわね。日本人はもっとインターナショナルな感覚を身につけんとあかんねえ。今世界で、国際三大バレエコンペティションいうたら何と何か知ってる? ブルガリアのバルナのコンクール、これが一番古いの。次がモスクワのコンクール。三番目が私のやっている「マサコ・オオヤ世界バレエコンペティション」。ところがこのコンペティションを、私が国の助成金も財界からの寄付も集めたりしないで全部自分でやったものだから、「あれはプライベートなものだ」とケチをつける関係者や、外国から呼んだ審査員にビザを発行しない日本大使がいたりして、お互いに足の引張り合いをするのね。

よその国ではユダヤ人の団結の固さは有名だけど、中国人、韓国人、みんな助け合いをするのにね。それと外国では個人が大学、病院、美術館をつくるということが高く評価されるのに全く逆なのね。オペラやクラシックバレエのできるホールも日本では皆無なのよ。私のコンペティションを大阪フェスティバルホールでやらないから二流だなんて言う人がいるけれどちがうのよ。世界のオペラハウスの舞台の理想の高さは七十五センチ、ところがフェスティバルホールは一メートル以上あって、最前列に坐ると踊り手の向うずねくらいしか見えないの。肝心の踏が見えないの。だから私は断固として舞台の高さが七十三センチの大阪厚生年金会館でやっているの。それで私が今考えているのは理想のオペラハウスを帝塚山に建てること。

客席は千八百から二千、間口は十六、七メートル、奥行は最低三十メートルはほしい。それに外国から呼んだメンバー三百人位が泊れるホテル付き、そしてアーケードも作ってと夢は果てしないの。大阪は国際新空港ができるのやからこれくらいのものをつくらなくてはね。
今時どんな地方都市にも立派なホールがあるのに、帝塚山には一つのホールもないなんてね。
帝塚山街づくりの活動をしているあなた達にも大いに頑張ってもらって、もっとアカデミックな街にしたいわね。

氏田 我々も及ばずながら積極的に交流の輪を広げていきたいと思っています。お忙しいところをありがとうございました。

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